1.「歌と踊りの祭典」とはどんな行事?







5年に一度、1週間から10日間にかけて行われる、国を挙げての国民的行事「歌と踊りの祭典」。ラトビア全土(および他国の在外ラトビア人)から集まったアマチュア団体によって行われ、出演者たちは全員ラトビアの民族衣装を身に着けます。その期間中、歌や民族舞踊、伝統楽器のコンサートなどが毎日行われるという、最もラトビアの文化とアイデンティティが感じられる文化的イベントです。最終日の「歌のクロージングコンサート」では、1万7000人以上が舞台に上がり、ラトビアの民謡をベースとした合唱曲や新曲などが、5時間以上深夜まで歌われます。そしてこのクロージングコンサート後は3万人ほどの観客と出演者が一つになって、夜が明けるまで歌い盛り上がる「歌い合いの夜」を行います。こうした盛り上がりはいわばまさに、オリンピックのようなイベントとも表現できます。
この「歌と踊りの祭典」はラトビアに限らず、バルト三国であるエストニアでは5年に一度、リトアニアでも4年に一度の頻度で開催されています。旧ソ連時代の中でも開催されてきたこの祭典は、2003年にユネスコの「世界無形遺産」に登録されました。
2.ラトビアの民謡と「歌と踊りの祭典」の歴史
1「歌と踊りの祭典」のはじまり










ドイツやロシア帝国などに長く他国に支配されてきたラトビアの地域では、ラトビアの文化およびラトビア語を口承することで、自文化を保ってきました。冠婚葬祭、子守歌に農作業を含め、あらゆる生活の場面でラトビア語の民謡が作られ歌われ、それらはダイナ(Daina)と呼ばれています。
ラトビア人たちは他国に支配される中で、自分たちのラトビア語で民謡を歌うことは、彼らの生きる力にもなりました。日常生活のあらゆる場面と歌うというこの歌の文化は、現在でも深く根付いており、人々は何気ない場面でも歌い合います。
歌と踊りの祭典につながる合唱祭開催のきっかけは、1817年から1819年に行われた農奴解放の後、ラトビア人がロシア帝国側へ行かないように囲い込みを図ろうとして、当時の実質支配者だったバルト・ドイツ人が「ラトビア人が歌を通してキリスト教への信仰を深めている」という見解のもと、合唱や音楽を通してドイツの啓蒙主義を浸透させ、ラトビア人をドイツ人のもとに集めようとして合唱祭を開催するようになったことでした。

1819年からドイツ人中心の合唱祭がリーガで開催されるようになり、1836年にはエストニアとラトビアの各都市からアマチュア合唱団がリーガに集まって「ダウガワの音楽の祭典」を行いました。これが実質バルト地域における合唱祭の始まりであり、1866年にはエストニアの首都タリン、1880年にはリーガで、同合唱祭がその後ドイツ人の主催で継続されています。このドイツ人主催の合唱祭の影響を受け、1864年にラトビア人男声合唱団が中心となって、ラトビア人による合唱祭をラトビア北部のディクリ(Dikļi)にて初めて開催しました。
その後、リーガにあったラトビア援助協会 (Latviskā palīdzības biedrība)による主導のもと、ツィムゼや当時の首都サンクトペテルブルグで音楽を学んでいたラトビア人作曲家たちと協力して、1873年に”Vispārīgie latviešu dziedāšanas svētki”(一般ラトビア歌唱祭)が開催されました。これがラトビア全国向けの、ラトビア人によるラトビア人のための、最初の歌の祭典でした。
2 ロシア帝国支配下の「歌と踊りの祭典」

1873年の合唱祭のためにバウマニス(Kārlis Baumanis,一般的にはKārlis Baumaņuと知られる)は、現在の国歌に相当する内容である”Dievs, svētī Latviju”(神よ、ラトビアを讃えよ)を作曲します。しかし当時の支配層であったロシア帝国ツァーリは、その曲のタイトルを理由に公式なプログラムから外しました。プログラムの紙面上に載ることがなくとも、ラトビアの人々はこの曲を合唱祭の始まりの歌として第1回から第5回まで歌い続けました。この時代の支配者はロシア帝国でしたが、もともとドイツ人が行っていた合唱祭であったことから、ラトビア人が合唱祭を主催してこの曲を歌うことは、ロシア人ではなくドイツ人への対抗意識の発露ともいわれており、またこの曲を歌うことで、ロシア帝国からの独立の意識を高めたに違いありません。
3 ロシア帝国からの独立

1918年にラトビアは初めて独立を果たします。この時の合唱祭では、ラトビア人作曲家による合唱曲が主となり、この時期に合唱祭はプロ音楽のレベルまでに達するようになります。更に合唱祭の規模は大きくなり、1926年から1938年までの合唱祭出演者は10,000人に達し、木造室内ホールから野外ステージで開催されるようになりました。
この頃から、吹奏楽やオーケストラ演奏の器楽コンサートも設けられるようになります。さらに合唱祭の冒頭に、当時のラトビア大統領チャクステ(Jānis Čakste, 1859-1927)の演説が入るようになり、この合唱祭自体が国家的・国民的行事になっていきました。
4 再度ソ連の支配下へ

1940年8月5日にソ連の支配下に入ると、ソ連当局はソ連邦内の多様な文化繁栄と統合、社会主義の浸透化を図る目的で、「ソビエトラトビア歌の祭典」という名称で合唱祭を継続させます。また、5年に1度の頻度で行われていた合唱祭が、ソ連の政治的記念日と結びつけるために変則的開催し、ソ連の政治的影響力を合唱祭の中に入れ込んでいました。ソ連時代は、進行もロシア語で行われ、プログラムや合唱曲歌詞の検閲も入るようになります。ソ連からの規制や指示により、合唱祭ではレーニンやスターリンを讃える歌、ソ連や共産主義を支持する歌などが必ずプログラムに入るようになり、ロシア人など他民族の作曲家による歌も3、4割占めるようになりますが、この際ソ連側に内容を気付かれないよう暗喩的な歌詞の歌を選び、人々はラトビア民謡にラトビア人としての愛国的な思いを馳せながら歌っていました。
ソ連による合唱祭継続の支持や合唱活動の奨励のために出演者が増加し、ソ連時代の合唱祭では14,000人ほどが毎回出演するようになります。また1948年の合唱祭から、ソ連からの指示で舞踊コンサート(踊りの祭典)も加えられるようになり、「歌と踊りの祭典」へと変わりました。これまでの出演者は大人が中心でしたが、1948年から1955年に児童・生徒の部が設けられるようになり、1960年には児童・生徒の部が独立して、”Skolu jaunatnes dziesmu un deju svētki”(学校青少年の歌と踊りの祭典、日本では「学生歌と踊りの祭典」ともいわれる)としても開催されるようになりました。
5 歌う革命、そして独立回復後

1988年10月7日から”Dziesmotā revolūcija”(英訳Singing revolution、歌う革命)がエストニアで始まり、1989年8月23日には「バルトの人間の鎖」が行われ、遂に1990年に独立を回復します。1990年の合唱祭は「第20回全ラトビア歌の祭典・第10回踊りの祭典」と改称され、これまでのラトビア史上最大規模の盛り上がりとなり、合唱出演者は最多の20,399人に上りました。更にソ連時代に歌われることなく、忘れられていたラトビア人作曲家の合唱曲などが次々と歌われるようになりました。 1990年以前はマイク不使用で歌われ、その場の人の手によって伴奏されていましたが、1993年以降は従来の伝統的な形式から変化し、コンピュータ使用、特殊照明効果、レーザー・マイク・スクリーン使用、シンセサイザーなどの電子楽器が用いられる「デジタル化」や、ポピュラー音楽などの取り入れによる「大衆化」、「ショー化」が進むようになります。加えて、テレビやラジオ、インターネットサイトの存在が、特に2000年以降の合唱祭を変えていきました。
2010年以降になると、外国からの招へい団体を歌のコンサートに参加させるという試みも行われるようになり、これまで国内のオーディションを勝ち抜いてきた団体の枠が減ってしまうという事態を招き、レベルも下がる、という状況が大きく危惧されました。現在はこの点改変され、国内・国外問わず各団体に課題曲による審査で勝ち抜いた団体のみ、現在は参加できるようになっています。

このように、その時代の状況の影響を受けながら、またこの合唱祭(歌の祭典)自体も人々や社会に影響を与えながら、伝統的な民俗文化と現代の人々が調和した国民的イベントとして大切にされてきました。特に、旧ソ連からの独立回復前までのラトビアの人々にとって、長い他国による支配下で生き残るために、この合唱祭が民族アイデンティティやラトビア文化の共有・表象の場として大きな役割を果たしてきたといえます。
「歌いながら生まれ、歌いながら育った」というラトビア民謡にあるとおり、ラトビア人およびバルト三国における、まさに生きるためのアイデンティティをつなぎ合う祭典ともいえるかもしれません。
3.2023年の祭典
直近では2023年6月30日から7月9日まで「第27回歌の祭典・第17回踊りの祭典」として開催されました。この年は1873年に歌の祭典が始まったことから、記念すべき150周年として盛り上がり、最終日に行われる約1万6000人が野外ステージに上がって演奏する「歌のクロージングコンサート」の他に「大コンサート」として歌のみのコンサートを更に1つ追加される、という大きな試みがありました。当合唱団も、オーディションを勝ち抜いて出演決定が決まるや否や、異例の2つの歌のコンサートをこなすという挑戦を目の前にし、全40曲以上のラトビア語の演奏を行うという大変ハードなこともありました。
またこの年はロシアによるウクライナ侵攻も始まったばかりであり、ロシア系に対する緊張感も少なからずありました。
前述のとおり、様々な影響と施策と批判とを経て、現在は「ラトビアの伝統的な文化を守りつつ、ポピュラー要素も多少交えながら、歌や踊り、伝統楽器による音楽など、従来通りオーディションに勝ち抜いたアマチュア団体で開催する」という方向でここ数年は運営されています。また、先の大戦や旧ソ連時代に国外へ逃れていった在外ラトビアの人々も、「自分たちのルーツを確認する、大切な祭典」ととらえ、参加する団体も多くいます。

祭典期間中はラトビア全土から首都のリーガへ数万人が集い、参加者全員が民族衣装を着用することを義務付けされていることから、この期間の首都はラトビアの民族的文化で特にあふれる期間となります。この期間中は、伝統楽器クァクレ(Kokle)等による民俗音楽コンサート、伝統舞踊のコンサート(踊りの祭典)、吹奏楽やボーカルアンサンブルコンサート、民族衣装ファッションショー等、多数の伝統的なジャンルに基づいた演目が連日開催され、街中の公園では民芸市も行われます。そして全出演者による8時間以上におよぶ祭典参加者による行進も行われ、最終日の夜には5時間におよぶ歌のクロージングコンサートが、1万7000人ほどの歌い手が野外ステージの壇上に登って開催されます。このコンサートで歌われる歌は、ラトビア民謡を合唱曲にアレンジしたものや、愛国的な苦難の歴史を交えた歌もあれば(もちろん暗喩的な表現ですが)、近年作曲されたポピュラー要素を交えたラトビアらしい愛唱歌などになっており、時々伝統舞踊や伝統楽器の演奏も交えながら、また歌い手たちによるアンコールで時々曲を繰り返し歌いながら夜中まで続きます。そしてコンサート後は前述通り、3万人ほどの聴衆とともに、「歌い合いの夜」が祭典公式で行われます。このイベントでは、夜通し参加者と聴衆とがお祭り騒ぎで様々な歌を歌いながら踊ったり騒いだり、歌の喜びを分かち合う特別な時間を共有するものとなっています。これもかつては伝統的な「非公式イベント」として実は行われてきたもので、この「歌い合い」が終わった後の明け方には、電車の中で余韻に浸りながら電車の中でラトビアの歌を口ずさみ合う…そんなことも見かけます。

また、近年コロナ禍あたりからの影響も踏まえ、各コンサートのインターネットでの放送も無料で行われるようになり、ラトビア国内の限られた場所だけではなく、国外からでも視聴できるようになっています。
2024年にはリトアニアでも歌と踊りの祭典が開催され(6月29日、首都での開催は6月30日~7月6日)、2025年にはエストニアでも歌と踊りの祭典が開催されました(7月3日~7月6日)。また、ラトビアでは2025年7月5日から7月13日に「学生(ユース)歌と踊りの祭典」が開催され、コロナ禍による期間の延期もあったことも影響し、ここ数年に各国の開催が連続しています。こうして各国の開催期間を見ると、ラトビアだけが唯一10日間という長期間に渡って開催されており、そのコンサートの多様さに目を引くものがあります。
民族的な伝統文化を継承し、謳歌し、また1つのアイデンティティとしてまとまるこの歌と踊りの祭典は、それぞれの時代における状況の困難との調整を模索しつつも、国家的な重要イベントとして開催され続けています。