ラトビア雑感

著者:石井 洋一

「ラトビア語ってどんな言葉ですか?何語に似ていますか?」と聞かれることがある。「一番近い言葉はリトアニア語ですが、会話は通じないようですね」と答えるが、質問者は益々???となってしまう。ラトビア語はインド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属していて、ここにはリトアニア語とラトビア語しかない。聞いたところによると現代ラトビア語でサンスクリット語がかなり解るらしい。ラトビア語で「歌」は DZIESMA(ヅィァスマ)だし「星」は ZVAIGZNE(ズヴァイグズネ)だ。英語などと比較しても共通の語源があるとは到底思えない。

なんだかとても難しそうに思うかもしれないが、ラトビア語には⾧い間文字がなく、ヨーロッパからアルファベットが持ち込まれてラトビア語を表記するようになった。このため文字表記を見れば規則正しく読むことができる。英語のように同じつづりなのに発音が違ったり、同じ発音なのにスペルが違ったりという不規則なことはない。詳細に及べば日本語や英語にはない発音があったりするが、ほぼローマ字読みで読むことができる。英語よりもよほど単純な言語だと思う。

ラトビアがはじめてヨーロッパの歴史に登場するのは、ローマ教会が東方教会に対抗する形でこの地に布教しようとした 12 世紀末のことだった。

その頃既にドイツ商人が交易の拠点を築きつつあり、やがてリガはハンザ同盟の都市となっていく。1207 年には神聖ローマ帝国の公国として「テッラ・マリアーナ」が創設され、1215 年にはローマ教皇の直轄地とされた。この間布教に反発する現地人との戦いで宣教師が殺されることもあり、武装集団であるドイツ騎士団が乗り出してきてリヴォニア帯剣騎士団の拠点がおかれる。19 世紀までのキリスト教布教の歴史は教皇レオ 13 世によりリヴォニア教区の歴史としてまとめられた。(写真はリガ国立図書館に保存されているその歴史書)

キリスト教会が進出した目的は未開の民族に布教してキリスト教徒を増やすことであったが、騎士団は異教徒を殺せば免罪符を得られて天国へ行ける、異教徒を排除した地には入植してキリスト教国にすればよい(実際古プロイセンはそのようにして滅ぼされた)と考えていたから、この両者の利害はしばしば対立することになる。これに現地の諸民族や周辺の列強、特にバルト海を自分の海にしたいスウェーデンとロシア、さらに古いキリスト教国であったポーランドがラトビアの地を巡ってせめぎ合っていく。宗教的にもローマカトリックと東方教会が接触する地であり、後にはプロテスタントが深く入り込んでいく。これらの歴史はそれなりに面白いのだがそれらは支配者側の歴史である。ラトビアの歴史という時、それはラトビア民族の歴史のことなのか、現在ラトビアと呼ばれている土地の歴史のことなのか、は考えておかなければならない。ラトビアという土地の歴史はそれら支配者の歴史として書き残されているが、当のラトビア人はかなり後まで文字というものを持っていなかった。彼らは自分たちのことを口承で伝え、歌にしてきたのだ。ラトビア人の歴史はそれら口

承文学の中にあるといってもよいだろう。その口承文学を記録して残した人物が Krišjānis Barons である。今回の演奏会には彼のことを歌った曲「BARONS」が演奏される。BARONS が集めた民謡は 4 行詩の形で記録され、国立図書館のキャビネット(次ページの写真)に大切に保管されている。ラトビアの民謡は 120 万とも 150 万ともいわれ今もなお増え続けているらしい。

そもそもラトビアという国名自体が1857年に提唱された概念で、ドイツ人は未だにラトビアとは言わずリヴラント(リーヴ人の地)と呼んでいるくらいだ。リーヴ人は先住民族のような存在でリーヴ語最後の話者が 21 世紀になって亡くなり、理へヴ語を理解できる人は100人余りらしい。ラトビアの地はそのリーヴ人を始めラトガレやクルゼメなどの少数民族が分散居住していてまとまった統一国家はなかった。例外は 1562 年クルゼメ・ゼムガレ地方に建国されたクールラント公国で 1795 年まで存在し、一時はアフリカやカリブ海に植民地をもっていた。しかしこの公国はドイツ騎士団が世俗化したものであってラトビア人は農奴として支配された存在だったのだ。

ラトビアが国家として初めて成立したのは 1918 年のことで、第一次世界大戦の結果ヨーロッパの 4 つの帝国(ドイツ、オーストリア、トルコ、ロシア)が滅んだことにより権力の空白が生じ、この地域の民族自決意識が高まり独立を宣言したのだ。独立に至るラトビアの道のりは険しかった。1857 年にこの地域で似た様な言語を話す人々をラトビア人としようと提唱されたあと、それまで各地方で開催されていた「歌の祭典」をこれらの地域すべてのものとして初めて統一し 1873 年に第 1 回のラトビア歌の祭典が開催された。この歌の祭典はラトビア人としての民族意識を高め、バラバラだった各地域の人達を一つにまとめる大きな力となった。1918 年に独立宣言するまでの間に 5 回(1873,1880,1888,1895,1910)の開催が記録されている。初めはドイツ・オーストリアの作曲家のものが上演されたりしていたが、次第にラトビア人作曲家の作品が大半を占めるようになっていったようだ。

最初の独立は第一次世界大戦の戦勝国によって組織された国際連盟の常任理事国によって 1921 年に承認された。同時日本も常任理事国の一つでラトビアの最初の承認国となった。このことをラトビア人はよく知っている。

特に日本はラトビアが⾧く支配されていたロシアを破った唯一の国でもある。日露戦争の時にバルチック艦隊が出撃したのはラトビアの港リエパーヤからだった。ソ連の支配下だった 1977 年歌の祭典に外国の合唱団が初めて招かれた時、西の隣国ポーランドの合唱団とともに東の隣国(!)日本から神戸の合唱団コーロ・ノーヴォが参加したのも、日本への思いが反映していたのかもしれない。

ラトビアの人達の風呂はサウナである。汗をかきながら柳の枝でバシバシたたく。日本の風呂も江戸時代までは蒸し風呂だったそうだ。ラトビア人は今でも太陽や雷など自然のものに神の存在を感じているらしい。日本の八百万の神にも通じるものがある。日本のお寺の地図記号卍はラトビアでは「火の十字架」としておめでたいものとされている。太陽を母なるものとし、雷を父なるものとするのも天照大神や雷親父に通じるかもしれない。ラトビア語の AKUA は水を意味するが日本語の閼伽と同源のサンスクリット語に由来する。ラトビアの人達は森に入って山菜やキノコを採り、ベリーを摘み自然とともに生きている。日本の田舎でも山菜やキノコ採りは季節の楽しみだ。日本人がラトビアを訪れて何だかほっとする感じを受けるのは自然とともに生きる姿が古き日本人の姿に重なるからに違いない。

ソ連がペレストロイカを経て崩壊に向かう中、バルト三国は独立を回復した。バルト三国をつないだ人間の鎖に始まった独立への動きは歌う革命と言われて平和裏に独立を回復したように思われているが、ラトビアでは6人の方が犠牲になっていて、その慰霊碑がリガ市内の公園に置かれている。彼らの事を忘れまいとするラトビア人の気持を表している。

合唱を通じたラトビアとの交流は日本人とラトビア人の心の交流でもある。まだまだ語りたいことはあるが紙面が尽きた。ほかのことはまたの機会に!